悪辣な黒蝶
大学2年生の春、新しい季節の訪れを感じる陽気の中、私の幼馴染のAちゃんが車に轢かれる事故に遭った。Aちゃんとは、家が近いこともあって保育園から高校までずっと一緒だった。お互いの性格は正反対で、はっきりと物を言うAちゃんの隣で、私はいつも彼女の強さに助けられ、支えられてきた。
その年の春は、いつもよりも早く訪れ、街は桜の開花を待ちわびるかのように、徐々に冬の寒さから解放されていった。空には蝶が舞い、新しい季節の訪れを告げる。そんなある日、私はAちゃんとの約束のために家を出た。しかし、その約束は果たされることなく、突然の事故の報せが私に届いた。
心臓の鼓動が速くなる。目の前の景色がモノクロへと変化していく。耳に聞こえてくる音は全てが雑音。だが、幸いにも足の骨折だけで済んだと聞き安堵した。
Aちゃんは家から少し離れた病院に搬送された。世界的に流行したウィルスを切っ掛けに、今は入院も中々させて貰えない時代だ。私はAちゃんの支えになりたい一心で、ほぼ毎日お見舞いに行くことにした。
病院のロビーを抜け、Aちゃんが入院している病棟へ。表札を確かめながら病室のドアを開けると、そこは日差しが明るく照らしており、清潔感に溢れていた。窓からは桜の花が咲き始めているのが見える。ひらひらと一枚、また一枚と薄いピンクの花びらが連なり落ちていく様はとても幻想的な雰囲気を漂わせていた。
桜の花びらに紛れ、蝶の群れが見えた。黒く大きな蝶。遠目から見てるにも関わらず、とても美しく、はっきりと鱗粉がキラキラ乱反射している。その様は、幻想的な雰囲気を漂わせるのに一役買っているようにも見えた。しかし、蝶をみていると何か胸騒ぎがする。見落としている違和感があるような感覚。
「来てくれてありがとう。」
Aちゃんに言われ「はっ」とした。そうだ。お見舞いに来たのだった。手土産に持ってきたフルーツを渡し、食べるか聞くとAちゃんは頷いた。それからしばらく談笑していた。私たちは二人集まればいつも笑っている。事故の日のことも話した。Aちゃんは『黒い蝶が道路に飛び出してきて…』と仕切りに言っていたが、私は事故の知らせを聞いた時のことを思い出すと怖くなって少しだけ泣いてしまった。お見舞いに来た私は逆にAちゃんに慰められてしまった。
日も暮れ、面会時間が後30分程度になるころにAちゃんのお母さんがお見舞いにやってきた。パートが終わらず予定よりもだいぶ遅れてしまったようだった。お母さんは持ってきたAちゃんの入院に必要な荷物を、事務的に病室の収納へ押し込んでいく。「遅くなっちゃってごめんね。明日は早く来るからね。」とAちゃんに言うお母さんと一緒に私は病室を出た。今日はお母さんのご好意で、帰りは車で送ってもらえることになった。
病室から廊下に出ると、私は驚き息をのんだ。
病室から見た桜の木にいた蝶が、廊下を飛んでいる。しかし、蝶と呼んでいいのか判断に困るほど大きく、子猫ほどもあった。そして身体があり、手足があり、頭があり、目がある。昆虫のそれではなく、まるで哺乳類のようにだ。目は鋭く吊り上がっており、口から尖った牙のようなものが見える。誰もが一見しただけで「悪い物」であると判断できた。恐怖感から、私は咄嗟に目を伏せ、呼吸を止めた。
横目で蝶の方を見る。どうやらその蝶は私には関心がなく、ヒラヒラと舞いながらAちゃんの病室の隣の病室へと入って行った。止めた息を私は一気に吐いた。
「なにしてるのー?」Aちゃんのお母さんの声が聞こえる。私は小走りにお母さんの所まで走ったが、どうやらお母さんには「その蝶」は見えていないようだった。
翌日、私はAちゃんを見舞うつもりでお昼過ぎに病院に向かった。昨日の恐怖感は残っていたが、お母さんに見えていなかったのはきっと「私の見間違いだったからだ」と思い込み、恐怖感に蓋をするだけで幾分マシにはなった。そもそも、そんな大きな蝶なんて実際には存在しないのだから。
ロビーを抜け病棟のエレベータへいくと、看護師やら病院の関係者が慌ただしくしている。「どうしたのかな?」と思いながらAちゃんの病室のドアを開けた。ベッドの上に、泣いているAちゃん。
「大丈夫?どうしたの?」驚いた私はその言葉を絞り出した。
Aちゃんは涙を拭い、顔を上げた。「あのね、隣の病室のおじいさん、昨日亡くなったんだって。」彼女の声は震えていた。「おじいさん、いつも私を励ましてくれて…。でもね、昨日、変な夢を見たの。夢の中で、大きな黒い蝶がおじいさんのベッドの上を飛んでるの。で、目が覚めたら、おじいさんが…。」
私の心臓は一瞬で凍りついた。あれは私の見間違いではなかったのだ。昨日の夜、廊下で見たあの蝶は確かに隣の病室に入って行った。あの悪意に満ちた目から感じる、悪辣な容姿はこの世のものではない。死を感じさせる何かだと確認できた。
私はそのことはAちゃんには言わなかった。ただ慰めた。怖かったね。悲しかったね。私がいるから大丈夫だよ。なにも心配はいらないよ。子供をあやすように。Aちゃんは極度の疲労からか、そのまま眠ってしまった。Aちゃんは明日には退院するのだ。変に怖い思いをする必要なんてない。
おじいさんの死からは特に何もなく、Aちゃんは無事退院することができた。しばらくは骨折しているので外出もままならない。私が代わりに買い物を手伝ったり、家に遊びにいき話し相手になったりしていた。
一体あの蝶はなんだったんだろう。鱗粉を撒き散らし、あの蝶が鋭い目つきで不気味に笑う。あんなもの、この世の存在では絶対にありえないんだ。死を司るなにかであると思う。
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