黄昏の雨
夏の終わり、静かな農村に住む里美は、夕方になると必ず散歩に出かける習慣があった。村は山に囲まれ、毎晩のように霧が立ち込め、視界が悪くなる。しかし、そんな風景が彼女にとっては心地よく、日常の些細な悩みを忘れる時間となっていた。
ある日、里美がいつものように散歩に出かけると、突然、空が不気味に暗くなり始めた。濃い灰色の雲が山の頂を覆い、風が冷たく吹き付ける。彼女は不安を感じながらも、足を止めることなく歩き続けた。しかし、いつもの道ではなく、なぜか吸い寄せられるように山のふもとに続く小道へと進んでいった。その先には古い祠があり、村では「雨神様」として知られていた。
祠に近づくにつれて、里美の心臓の鼓動が早まっていく。周囲は静まり返り、ただ風が木々の間をすり抜ける音だけが響く。祠の前に立つと、彼女は目を疑った。そこには古びた和傘が一本、まるで誰かが急いで置き去りにしたかのように置かれていた。誰が、なぜここに?里美は恐る恐るその傘を手に取り、そっと広げた。
その瞬間、雷鳴が轟き、空から激しい雨が降り注ぎ始めた。傘の下に守られた彼女は、雨の一滴も感じることなくその場に立ち尽くしていたが、心の奥底から不安が沸き上がってきた。傘の内側を覗き込むと、古代の文字や奇妙な模様がびっしりと刻まれているのに気づいた。それは見たこともない文字だったが、何故かその意味が直感的に理解できた。そして、目を離すことができないまま、その文字を追っていると、突然、頭の中に不気味な声が響き渡った。
「この傘を閉じてはならない。この雨が止まるまで、絶対に閉じるな。」
その声は冷たく、決して拒絶することを許さない強制力を伴っていた。恐怖に震えながらも、里美はその命令に従うしかなかった。しかし、雨は一向に止む気配がなく、むしろますます激しさを増していく。冷えた風が彼女の体温を奪い、傘を持つ手が痺れ始めた。
足元に目を落とすと、祠の前の地面が赤く染まっているのに気づいた。最初は泥だと思ったが、よく見るとそれは血のような赤い液体だった。里美はパニックに陥り、傘を閉じようとしたが、手が動かない。まるで見えない力に押さえつけられているかのようだった。
「閉じてはならない…閉じてはならない…」
声はさらに強く、耳元で囁くように響き渡り、彼女の精神を徐々に蝕んでいった。恐怖に駆られた里美は、傘を閉じることを諦めるしかなかった。しかし、その瞬間、周囲の風景がぼんやりと歪み始めた。霧が濃くなり、視界がますます悪くなる中、彼女は何かが自分に近づいてくるのを感じた。
霧の中から次第に現れたのは、人影のようなものだった。それらはまるで亡霊のように半透明で、ゆっくりと彼女に向かって歩いてくる。影たちは何かを囁いているようだったが、その言葉は聞き取れない。恐怖で足がすくんだ里美は、動くことができなかった。
「この雨は…終わりを告げる雨…」
影たちは口々に囁きながら、里美を取り囲んでいった。そして次の瞬間、彼女の意識は闇に飲み込まれた。
翌朝、村人たちは祠の前で倒れている里美を見つけた。彼女は震えながらも、雨は止んだと小さく呟いた。しかし、その日から村には二度と雨が降らなくなり、里美もまた、二度と村から出ることはなかったという。村人たちは彼女が見たものを知ることはなかったが、村の誰もがその日以来、祠に近づくことを避けるようになった。
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