赤い郵便ポスト 前編
仕事からの帰り道、私の足がふと止まった。
普段は何の気にも留めないはずの古びた郵便ポストが、まるで私を呼び止めるかのように感じられたのだ。通りの片隅にひっそりと佇むその赤いポストは、錆びつき、塗装も剥げていた。誰も使わなくなった昭和の遺物のようで、時代から取り残されたかのように感じた。
しかし、その日はなぜか不気味な存在感を放っていた。これまで何度も通り過ぎていた場所なのに、その日はどうしても目を逸らせなかった。
気がつけば、私はそのポストに吸い寄せられるように近づいていた。
疲れた心が、日々の忙しさから逃れるために何かに引き寄せられたのだろうか。目の前のポストは、無機質で冷たく、周りの風景と一体化しているように思えた。しかし、その口がかすかに開いているのに気づいた瞬間、何かが違うと感じた。
こんな古びたポストに誰かが最近手紙を投函したのだろうか。それとも、風で開いてしまったのか。そんな疑問が頭をよぎったが、直後に背筋を凍らせるような感覚に襲われた。
「助けて…」
突然、かすかな声が聞こえた。ほんの一瞬、風の音かと思ったが、確かに「助けて」という言葉が耳元で囁かれた。私は驚きと恐怖で体を硬直させ、辺りを見回した。周囲には誰もいない。夕暮れ時の静かな街には、車の音も人の気配も消え、ただ風が木々を揺らす音だけが響いていた。
心臓が激しく鼓動し始め、冷たい汗が背中を伝うのが分かった。気のせいだ、疲れているんだ、と自分に言い聞かせ、ポストから距離を取ろうとした。
しかし、背後から再びカタンと音がした。振り返ると、ポストが揺れているように見えた。錆びた古いポストがまるで命を持っているかのように、わずかに揺れているのだ。
「こんなはずがない…」
そう呟きながらも、私の足は動かなくなっていた。恐怖で立ちすくんでいる自分が恥ずかしくなり、無理やり足を動かしてその場を離れた。早足で家に帰る途中、何度も振り返ったが、ポストはもう動いていないように見えた。しかし、心の中の違和感と恐怖は消えなかった。
家に着いても、あのポストのことが頭から離れなかった。何度も見たはずの通り道なのに、なぜ今日だけあんな異様な感じを受けたのか。あの「助けて」という声は幻聴だったのか。それとも、何か別のものがそこにあったのか。
考えれば考えるほど、答えが見つからず、気味の悪い感覚が体を包んでいた。
夜になっても不安は消えなかった。
布団に潜り込み、無理やり眠ろうとしたが、瞼を閉じるたびにポストの錆びた赤い姿が浮かび上がってくる。やがて、眠りにつくと、夢の中で私は再びあの通りに立っていた。そこには、やはりあのポストが佇んでいた。しかし、今度はポストの口から何かが這い出してくる。
細長い手が、私の方に向かって伸びてくるのだ。逃げようとしても体は動かず、息が詰まりそうな恐怖に包まれていた。
目が覚めた時、全身が汗でびっしょりだった。
夢だと分かっていても、その恐怖は現実と変わらないほど生々しかった。私はしばらくベッドの上で呆然とし、夢の意味を考えようとした。しかし、答えが出るわけもなく、ただ不安だけが胸に残った。
次の日、仕事に向かう途中、再びあの通りを通る時がやってきた。ポストは昨日と同じ場所にあり、やはり古びたまま静かに佇んでいた。しかし、どうしてもその前を通り過ぎることができず、足が自然に止まってしまった。心の中では、昨日のことを忘れようとしていたはずなのに、体は正直だったのだ。
気がつくと、私はまたしてもそのポストに近づき、無意識のうちにポストの口を覗き込んでいた。
その瞬間、暗闇の中に何かがいた。じっと私を見つめているような気配がした。私は目を凝らして確認しようとしたが、突然の寒気が全身を襲い、すぐに目を逸らしてしまった。
再び「助けて」という声が耳元に響き渡り、私は恐怖に駆られてその場を逃げ出した。
足音だけが響く中、あのポストの存在感は次第に遠ざかっていったが、心の中には未だにその影がこびりついて離れなかった。
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