月の影
私は昔から月を見るのが好きで、夜空に浮かぶその神秘的な光に魅了されていました。月はいつも私を落ち着かせ、心を静めてくれる存在でした。しかし、ある晩、私は月に対する感情が変わってしまう出来事に遭遇しました。
その夜は、山道を一人で散歩していました。空には雲一つなく、満月が異様なほど明るく輝いていました。あまりに明るく、まるで昼間のように周囲の景色がくっきりと浮かび上がっていました。月光に照らされた木々の影が地面に長く伸び、風に揺れる度にそれが生き物のように見えました。
歩いていると、ふと何か違和感を覚えました。普段とは違う静けさが辺りを包み込み、虫の音さえも聞こえなくなっていたのです。足を止め、耳を澄ませましたが、風の音すらも消えていました。そして、私は目の端に捉えた異変に気付きました。
月の表面に、何かが動いているのです。最初は目の錯覚かと思いましたが、目を凝らすと、それは確かに月面にうごめく影でした。影は徐々に形をとり、人の姿に見えてきました。まるで月が何かを宿しているかのように、その影は動きを止めず、やがて私に向かっていることに気づきました。
不安が胸に広がり、体が硬直しました。影はゆっくりと地上に降り立ち、明確な形を持つようになりました。それは、まるで私自身の影が月から分離して降りてきたかのように見えましたが、どこか不自然で、歪んだ存在感がありました。顔が見える距離まで近づいたとき、私は息を飲みました。そこには目も口もなく、ただの真っ黒な闇が広がっていました。まるで深淵そのものがそこに存在しているかのようでした。
恐怖で体が震え、逃げ出そうとしましたが、影は私の動きを察知したかのように、素早く手を伸ばしてきました。その手が私の足に触れた瞬間、氷のような冷たさが全身に広がり、動けなくなりました。力が抜け、私はその場に崩れ落ちました。影の冷たい感触は皮膚を通り越し、骨まで凍りつくようでした。私の視界は徐々にぼやけ、意識が遠のいていくのを感じました。
気がつくと、私は自分のベッドに横たわっていました。全身が鉛のように重く、頭もぼんやりとしていました。夢だったのかと思い、安堵しようとしましたが、足元の異様な冷たさに気付きました。恐る恐る足を確認すると、そこには黒い痣がくっきりと残っていました。あの影が残した痕跡であることは明らかでした。
その日から、私は月を見ることができなくなりました。満月の夜になると、窓にカーテンを閉め、部屋の明かりを全てつけて、月光が入らないようにしました。しかし、それでもあの夜の恐怖は消えませんでした。眠りにつくたびに、あの影が夢の中で私を追いかけてくるのです。
夢の中の私は、再びあの山道を歩いています。周囲は月光に照らされ、不気味な静けさが支配しています。遠くに月が輝き、その中に例の影が現れます。影はゆっくりと、しかし確実に私に近づいてきます。私は逃げようとしますが、足が重く、まるで地面に縛り付けられているかのようです。影が手を伸ばし、私に触れる直前に目が覚めますが、その恐怖は現実にまで引きずられます。
毎晩、夢は少しずつ変わっていきます。影は徐々に距離を縮め、次第に私を捕らえようとしています。月が満ちるたびに、その影は現実世界でも私に近づいているような気がしてなりません。最近では、夜の外出を避け、家に閉じこもるようになりました。それでも、満月の夜には何かが私を見ているような気配を感じるのです。
いつか、あの影が現実に私を捕まえるのではないかという不安が、日に日に強くなっています。もしそれが現実になったら、私は二度と戻ってこれないでしょう。月を見るたびに、その恐怖が蘇り、私はただ祈ることしかできなくなりました。
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