ある日の終電
ある晩、私は仕事が遅くなり、帰りの電車に乗り込んだ。
終電近くで、車内はほとんど人がいなかった。外は雨が降り、窓ガラスに滴る水滴がぼんやりと街の明かりを反射している。私は座席に腰を下ろし、疲れた体を休めようとしていたが、どこか落ち着かない感覚が心に引っかかっていた。
次の駅に停車し、数人の乗客が降りたあと、最後に一人の女性が車内に入ってきた。彼女は長い黒髪に白いワンピースを着ていた。顔は見えず、俯いたまま、何も言わずに私の前に立ち止まった。その瞬間、空気が変わったような気がした。電車の揺れとともに、重く不吉な雰囲気が広がり、私は心臓がドキドキと速くなった。
何かがおかしい。彼女の存在自体が不自然に感じられ、私は視線をそらした。ふと窓に目をやると、反射する彼女の姿がぼやけている。まるで、影だけがそこに浮かんでいるかのようだった。息が詰まりそうなほどの違和感に、背中に冷たい汗が流れた。
耐えきれず、私は意を決して彼女に声をかけた。「…あの、大丈夫ですか?」
彼女は無言のまま俯き続け、しばらくの間、静寂が続いた。しかし、突然、かすかな声でつぶやいた。
「次の駅で…降りて…」
声が低く、囁くようだったが、その言葉が耳に焼きついた。意味がわからないが、背筋に走る寒気が恐怖を呼び起こす。何か、危険なことが起きるという直感が私の中に渦巻き始めた。電車が次の駅に着いた時、私はどうすべきか迷ったが、結局降りることはできなかった。
電車が再び動き出し、少しほっとした瞬間、異様な冷気が車内を満たした。振り返ろうとしたが、身体が凍りついたかのように動かない。心臓が暴れるように鼓動し、呼吸が浅くなっていく。そして、背後から低く囁く声が耳元に届いた。
「…もう遅い…」
恐怖で身体が固まったまま、私は振り返ることができなかった。その瞬間、電車が急停止し、乗客が揺れる衝撃が走った。車内アナウンスが響く。
「前方で人身事故が発生しました。しばらくお待ちください。」
その言葉を聞いた瞬間、あの女性の声が頭の中で再生される。「降りて…」――次の駅で降りなかった私は、恐ろしい運命に取り込まれたように感じた。冷たい汗が額から流れ、震える手で座席を掴んだ。
車内は静まり返っていた。誰もいないはずなのに、確かに感じる。背後にいる何かの気配を。
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