見えない客
これは、僕が大学生だった頃に体験した、今でも忘れられない話です。
当時、僕は深夜に終わるコンビニのバイトをしていました。深夜の2時まで働いて、その後、帰宅するのが毎日のルーティンでした。自転車で20分ほどの距離にあるアパートに向かう途中に、別の24時間営業のコンビニがあったんです。そこに寄って、飲み物やちょっとした軽食を買うのが日課になっていました。
ある日、いつもと同じようにバイトを終えて、1時半頃にそのコンビニに立ち寄りました。
雨がしとしとと降っていて、辺りは薄暗く、街灯の明かりがぼんやりと道路を照らしていました。店に入ると、いつもの店員さんがいないことに気づきました。代わりに、中年の男性が無表情でレジのカウンターに立っていました。身長は170センチくらいで、髪は薄く、無精ひげを生やしていました。普段の若い店員とはまったく違う雰囲気です。
「いらっしゃいませ」
彼の低い声が店内に響きましたが、どこか抑揚がなく、機械的に感じました。
僕は、何となく違和感を覚えながらも、冷蔵庫の前に立ち、いつものように飲み物を選びました。その間も、背後からじっと見られているような視線を感じて、振り返ると、店員は無表情のまま僕を見つめていました。
思わず「何か用でもあるのか?」と心の中でつぶやきましたが、気味悪さを振り払うように飲み物を手に取り、急いでレジに向かいました。
レジに立つと、店員は無言でバーコードをスキャンし始めました。僕が財布を取り出して小銭を出していると、彼は突然こう言ったのです。
「……夜道、気をつけてくださいね」
彼の目は僕を見ていませんでした。ただ、レジの液晶画面を見つめたまま、淡々とした口調でつぶやきました。言葉の意味がすぐに理解できず、僕は「え、なんですか?」と聞き返しました。すると、彼はもう一度、同じ言葉を繰り返しました。
「夜道、気をつけてくださいね」
その瞬間、ゾワッと背筋が寒くなりました。何か意味深な言葉だとは思いましたが、どう解釈していいのかわからず、とにかく早くこの場を離れたい一心で「ありがとうございます」とだけ返しました。
彼はそれ以上何も言わず、僕にレシートを渡しました。
店を出て自転車に乗り込み、家に向かって走り出したのですが、どうしてもあの店員の言葉が頭から離れませんでした。「夜道、気をつけて」という言葉は、まるで何か危険が迫っているようなニュアンスに感じられたからです。
暗い山道を進むと、周囲はさらに静かになり、雨音が妙に大きく響いていました。
僕は背後に誰かがいるような気がして、何度も振り返りましたが、そこには誰もいません。しかし、心臓の鼓動がだんだんと速くなり、全身に緊張が走りました。
その夜は結局、無事にアパートに到着しましたが、なぜか息が上がり、ドアを閉めると同時に一気に疲労が押し寄せてきました。なんとも言えない不安感に襲われ、僕はすぐに布団に潜り込んで目を閉じました。
次の日も同じ時間にバイトが終わり、再びそのコンビニに寄ることにしました。前日のことが気になり、あの店員さんがいるかどうかを確認したかったのです。コンビニに入ると、今度はいつもの若い男性店員がレジに立っていました。
「あ、昨日はお疲れさまです」と、僕に笑顔で声をかけてくれました。
その瞬間、僕は少し安心した気持ちになり、思い切って質問してみることにしました。
「昨日、夜中に来たとき、ここにいた中年の男性店員さんって、今日は休みなんですか?」
その質問に、店員は少し困惑した顔をしました。
「え?中年の男性ですか?うちの夜勤は僕ともう一人の学生だけで、中年の人はいませんよ。昨日も僕が夜勤でしたけど、あなたは見かけませんでしたけど…。」
彼の言葉を聞いた瞬間、血の気が引くのを感じました。僕は確かに、あの中年の店員を見たし、話もした。でも、彼の言うことが事実なら、あの店員は一体誰だったのか。
そして、なぜ僕に「夜道、気をつけてくださいね」と言ったのか。
その場で思わず、もう一度店内を見渡しました。どこにもあの店員の姿はなく、店の中は普通の日常の空気に満ちていました。でも、何かが引っかかっているような感覚が消えません。
「気のせいかもしれませんね、すみません」と僕は言って、店を後にしましたが、帰り道に再びあの言葉が頭の中をぐるぐると回り始めました。
自転車をこぎながら、背後から何かが迫ってくるような感覚を何度も振り払いました。
今でも、雨の夜にそのコンビニの前を通ると、あの無表情の中年店員がガラス越しにこちらをじっと見ているような気がして、どうしても視線をそらしてしまいます。
あの日のことを誰かに話しても、笑って「ただの勘違いだろう」と言われるだけかもしれません。
でも、僕にとってあの夜の出来事は、あまりにも現実的で、あまりにも生々しい恐怖だったのです。あの「夜道、気をつけてくださいね」という言葉の真意が、今でも頭の片隅にこびりついて離れません。
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