お客さん 後編
翌朝、私は昨夜の出来事が気になり、アパートの管理人に話をしに行きました。
管理人は短く髪を刈り上げた、少し無口な中年の男性でした。普段は無愛想で、ほとんど顔を合わせることもありませんでしたが、この日は心配のあまり声をかけずにはいられませんでした。
「昨夜、変な男が部屋のドアを叩いたんです。無言で立っているだけで、怖くて…」と訴えました。管理人は驚いた表情を浮かべるでもなく、淡々と答えました。「そんな話、聞いたことないね。このあたりは静かだから、そういうことはまずないと思うけど。」
警察に通報するべきかと悩みましたが、男は去ってしまい、実際に何も被害がなかったことから、大げさにするのも気が引けてそのままにしました。それでも、その日の夜もまた、あの男が現れるのではないかという不安が頭から離れませんでした。
数日が経過し、少しずつ気持ちが落ち着いてきた頃、また同じ時間帯に不気味な出来事が起こりました。夜遅くまで仕事をしていると、またしてもドアをノックする音が響き始めたのです。
時計を見れば、午前2時を少し過ぎた頃でした。音は前回よりも激しく、何度も繰り返され、まるで部屋の中へ押し入ろうとしているかのようでした。身体が硬直し、動けなくなった私は、呼吸を整えながら一瞬でも冷静になろうとしましたが、心臓が鼓動する音だけが耳に響いていました。
今度こそ、何か証拠を残さなければ。私はとっさにスマートフォンを手に取り、録音アプリを起動しました。これで何が起こったのか記録できるはずだ、という思いに少しだけ心が落ち着いた気がしました。
覚悟を決め、ドアの前に立ち、再びチェーンをかけたまま少しだけドアを開けると、やはりそこにはあの男が立っていました。変わらず無表情で、じっとこちらを見つめていました。
前回のように声をかけると、男は少しだけ口を開き、「今度は逃げられない…」と、かすかに低い声でつぶやきました。その言葉がどういう意味なのか、その瞬間は理解できませんでしたが、恐怖が一気に押し寄せ、反射的にドアを閉めました。ドアの向こうから足音が遠ざかるのが聞こえ、再び静寂が訪れました。
急いで録音を確認しましたが、そこに残されていたのは私の声だけで、ドアのノック音も男のつぶやきも、何一つ記録されていませんでした。
録音が正常に作動していたのは確認済みなのに、その場の音が消え去っているかのような状況に、私はますます恐怖に駆られました。あの男が本当に存在しているのかすら、疑問を抱かざるを得なくなったのです。
翌朝、再び管理人の元に向かい、監視カメラの映像を確認してほしいと頼みました。管理人はしぶしぶ応じてくれましたが、監視カメラには何も映っていませんでした。深夜2時過ぎの映像を巻き戻して確認しましたが、誰も私のドアを叩く姿などないのです。「やっぱり、おかしいな。何も映っていないよ。君の思い違いじゃないのか?」と、管理人は眉をひそめながら私を見ました。
私は自分の記憶を疑い始めていましたが、それでもあの男が確かに目の前にいた感覚は、はっきりと覚えています。あの無表情、冷たくこちらを見つめる目、そして、あの「逃げられない」という言葉。全てが現実だったはずです。
その夜、私は友人の家に泊まり、アパートには戻りませんでした。恐怖に耐えきれず、一人で夜を過ごすことができなかったのです。友人に話しましたが、彼も信じられないと言いました。それでも、あの深夜にノックが鳴り続ける限り、私は息を潜め、ドアに向かう勇気を持てません。
それから何度か同じ時間帯にノックの音を聞きましたが、私はもうドアを開けることはありませんでした。
コメント