後部座席
美紗子は仕事が終わり、疲れ切った体を引きずるようにして車に乗り込みました。夜遅く、街のネオンは薄暗く、道路は静まり返っています。彼女はハンドルを握り、ゆっくりと車を走らせ始めました。外の空気は冷たく、車内に入り込む風が心地よいはずなのに、なぜかその日は不安感が拭えませんでした。
道路を走っていると、ふと視線を感じました。何かが後部座席から彼女をじっと見つめているような、そんな感覚が脳裏をよぎります。
バックミラーを見ると、そこには何も映っていません。それでも彼女は心の中で「何かがいる」と確信してしまうのです。
そのうち、車内が妙に静かになったことに気づきました。エンジン音さえ遠のいたように感じられ、唯一の音は彼女の心臓の鼓動だけでした。その時、突然ラジオがザーッというノイズを発し始めました。美紗子は驚いてボリュームを下げようと手を伸ばしましたが、ラジオは彼女の意志とは裏腹に音量を上げ、低くかすれた声が聞こえてきました。
「後ろを見ないで…」
その言葉に美紗子は凍りつきました。体は硬直し、手はハンドルから離れませんでした。恐怖で目をつぶりたい衝動に駆られましたが、どうしてもラジオから流れるその声の主が誰なのか、後ろに何がいるのか確かめたくなる気持ちが押し寄せます。しかし、恐怖が勝り、彼女はそのままアクセルを踏み込みました。
車は高速で道路を駆け抜け、風の音が車内に充満します。美紗子の目には涙が浮かび、視界がぼやけていました。家まであと少しだと思いながら、彼女はただひたすらに車を走らせました。
家に着くと、慌てて車を停め、玄関に駆け込みました。鍵をかけ、息を整えようとしますが、心臓の鼓動が一向に治まりません。
ふと、スマートフォンが鳴り響きました。知らない番号からの着信です。美紗子は恐る恐る電話に出ました。
「後ろを見ないでと言ったはずだよね?」
その声に彼女は再び恐怖に包まれました。電話を切ろうとするも、指が動かず、携帯が手から滑り落ちます。部屋中が冷たい空気に包まれ、美紗子は床に崩れ落ちました。背後には何かが立っている気配を感じ、彼女は恐る恐る振り返りました。
だが、そこには何もありません。しかし、その時、彼女の背後に冷たい風が吹き込みました。その瞬間、彼女の意識は暗闇に吸い込まれるように途絶えました。
翌朝、彼女は家の外で冷たくなっている自分の姿を発見されました。車の後部座席で、穏やかな表情を浮かべながら。彼女の最後の言葉は「後ろに何がいたのか」と誰にも分からないままでした。
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