河原の跡
夏の終わり、私は久しぶりに祖父母の家を訪れていた。
小さな村の外れにあるその家は、広い畑と山に囲まれ、空気が澄んでいて、都会の喧騒とはまるで別世界だった。特に私は、祖父との時間が大好きだった。釣りが趣味の祖父は、昔から私を河原に連れて行ってくれた。
祖父と並んで、何も言わずに釣り糸を垂れるあの静かな時間が、私にとっての夏の風物詩だった。その日も、夕方の涼しい風が吹き始めた頃、私はひとりで祖父の竿を借りて河原へ向かった。
夕日が川面に反射し、オレンジ色の光が揺らめく景色は、まるで絵画のように美しかった。川のせせらぎと虫の鳴き声が、心地よいBGMになっていた。しばらく釣り糸を垂れていたが、釣果はなかった。それでも、何も気にせず、その場にいることが楽しかった。
ふと、夕日がだんだんと沈み、周囲が薄暗くなってきたことに気づいた。祖母が「暗くなる前に帰っておいで」と言っていたのを思い出し、そろそろ帰ろうと釣り道具を片付け始めた。その時、どこからかかすかな歌声が聞こえてきた。遠くで誰かが歌っているようだが、声は不思議とはっきりしない。
「あれ…?誰かいるのかな…?」
辺りを見回しても、見える範囲には誰もいない。ただ、川の向こう岸にぼんやりと人影が見えた。
夕闇に溶け込むようなその影は、こちらをじっと見つめているように感じられた。よく見ようと目を凝らしていると、その影がふわりとこちらに向かって歩き出した。
「なんだろう…」
不安が胸をよぎったが、同時にどこか懐かしい感じもした。
昔、祖父から河原には「何か」がいると聞かされていたことを思い出したが、当時はただの昔話だと思って気に留めていなかった。しかし、その影が近づくにつれ、徐々にその形がはっきりしてきた。人間のような姿をしているが、顔は霧の中に消えているようで、全身が揺らいでいる。私は思わず後ずさりした。
「やっぱり帰ろう…」
足を動かそうとした瞬間、足元が急に重くなった。見ると、足元には泥にまみれた手が絡みついていた。それは冷たくて、まるで死者の手のようだった。驚きで声が出ないまま、必死に足を振り払おうとしたが、その手はどんどん強くなり、私を川に引きずり込もうとしていた。
「誰か…!」
声にならない声で叫びながら、必死に抵抗する。すると、その時、耳元でかすかな声が囁いた。
「帰らないで…」
その声は、どこか優しさを感じさせるものだった。引き込まれそうになりながらも、私は再び足を振り払って立ち上がった。そして、その声に応じるかのように、祖父の言葉が頭をよぎった。「河原には気をつけろ」と。私はその場から走り出し、後ろも見ずに家に向かった。
祖父の家にたどり着くと、祖父はすでに玄関先で待っていた。私の様子を見て、祖父は静かに言った。
「見たのか、河原の奴を…」
息を切らしながら私は頷いた。祖父は軽くため息をつきながら、私の肩に手を置いた。
「河原には昔から妖怪が住んでいると言われているんだよ。お前が小さい頃から何度も話していたじゃろ?」
「妖怪…本当にいるなんて…」
「そうさ。ただ、悪い奴ばかりじゃない。あの歌声を聞いたろう?あれは、お前を川へ誘おうとする者もいるが、時には逆に助けようとしている者もいるんだ。昔、ここで流された子供たちがいるって話だからな…」
祖父はそう言って、優しく微笑んだ。私はその笑顔に少し安心しながらも、背筋に冷たいものを感じ続けていた。あの手の冷たさと、耳元で囁かれた「帰らないで…」という声は、どこか悲しげで温かさが混じっていた気がする。
もしかしたら、あの声の主も、かつてこの河原にいた誰かなのかもしれない――そんな思いが、私の心に残った。
その後、祖父は私に「もう河原には近づくな」と言ったが、どこか温かみのある語り口だった。私も二度と河原に行くことはなかったが、あの日の出来事は、恐ろしいものというよりも、不思議で切ない思い出として心に残り続けている。
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