彼岸花の咲く頃
あれは、秋分の日が近づいたある日のことでした。私はいつものように仕事帰り、最寄りの駅から家へと歩いていました。日が沈むのが早くなり、空は赤紫色に染まり、夕焼けが美しく広がっていましたが、どこか寂しさを感じさせる色合いでした。秋風がひんやりと頬を撫で、私は無意識に少し肩をすくめました。
家の近くには、小さな神社があります。古びた鳥居が入り口に立っていて、その先には小さな社と、周囲に植えられた彼岸花が一面に咲き誇っていました。毎年、この時期になると真っ赤な花が一斉に咲くのが恒例で、私はその光景を見るのを楽しみにしていました。けれど、その日は少し様子が違っていました。
神社の前を通りかかると、妙な違和感を覚えました。彼岸花は例年通り咲いていましたが、その赤色が異様に濃く、まるで血のような深い赤に染まっているのです。しかも、花の間に立つ人影のようなものが目に入りました。夕闇に溶け込むようにぼんやりと見えるその影は、誰かがそこで立っているように見えました。
「誰かいるのかな?」と訝しがりつつ、私は立ち止まってじっと見つめました。しかし、その影は微動だにせず、まるで花に同化しているかのようでした。心臓が軽く脈打ち、不安が胸に広がり始めました。次の瞬間、冷たい風が突如として吹きつけ、耳元に女性のうめき声がかすかに聞こえました。
「助けて…」
声はあまりにも弱々しく、しかし確かに耳元で響いたのです。驚いて振り返ると、彼岸花の間に立っていたはずの影が、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくるのが見えました。その姿は、ただの人間ではないと直感しました。顔はぼやけていて、全身が黒ずんで見え、どこか不自然なほど形が曖昧です。
私は息が詰まりそうな恐怖に襲われ、急いで家に向かって走り出しました。後ろを振り返ることができませんでしたが、背中にはその影が迫ってくる気配がありました。足音は聞こえませんが、確実に私の後ろにいる――そんな感覚が消えないのです。
家にたどり着き、ドアを乱暴に閉めた後、ようやく安堵のため息をつきました。しかしその瞬間、窓の外からまたあの声が聞こえました。
「ここにいるべきじゃない…」
ぞっとする思いでカーテンを閉め、ベッドに飛び込みました。眠れぬ夜を過ごし、朝を迎えるとすぐに、神社へ足を運びました。昨日のことが夢だったのか、それとも現実だったのかを確かめたかったのです。しかし、神社に着くと、彼岸花はすべて枯れ果てていました。まるで一夜にして命を失ったかのように、無残な姿をさらしていたのです。
さらに、境内には小さな石の祠が新しく置かれていました。そこには「迷い人供養」と彫られた石碑が立っており、まるで昨夜の出来事がそこに封じ込められているかのようでした。
あの夜見た影は一体何だったのか、そしてなぜ「ここにいるべきじゃない」と言われたのか、いまだに謎のままです。だが、あれ以来、神社の前を通るとき、私はその場所を避けるようにしています。あの影が再び現れるのではないかという恐怖が、今でも胸に消えないのです。
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