川の主
昔、ある山間の村には「川の主」と呼ばれる恐ろしい妖怪が住んでいるという噂がありました。その川は、村人たちの生活に欠かせない美しい清流で、特に夏の夕暮れには涼しげな音を響かせ、緑豊かな景色を映し出していました。しかし、村人たちはその川を恐れていました。夜になると、川辺で奇妙な音が聞こえることがあり、古老たちは「川の主」が川の深淵に潜み、夜になると人を襲うと語り継いでいたのです。
ある夏の日、若い漁師のタケルは、噂を一笑に付し、村の掟を無視して川で漁をすることを決意しました。タケルは貧しい家に生まれ育ち、彼の夢は一攫千金を掴み、村を出て都会で新しい生活を始めることでした。村の外れに住む彼は、夜にこっそりと川に向かい、大きな魚を釣り上げて一儲けしようと計画しました。夕暮れが過ぎ、夜の帳が降りる中、タケルは小さな舟を漕ぎ出しました。
川の流れは穏やかで、夜の静けさが彼を包み込みます。月明かりが水面に映り、川はまるで銀色の絨毯のように輝いていました。タケルは慎重に網を準備し、深い川に投げ入れました。しばらく待つと、網が重くなり、タケルは手応えを感じました。大物がかかったと確信した彼は、心の中で小さな勝利の笑みを浮かべました。
しかし、網を引き上げようとした瞬間、異変が起こりました。網はまったく動かず、まるで何かに絡め取られているかのようでした。タケルは力を込めて引っ張りますが、網は一向に動かず、次第に彼の手に冷たい汗が滲みました。そのとき、川の中から不気味な音が聞こえ始めました。それは、遠くで響くような低いうなり声で、川の流れとは異なる不自然な音でした。
タケルがその音の正体を確認しようとした瞬間、川面がざわつき、何かが水中から現れました。青白い手がゆっくりと川から伸び出し、タケルの腕を掴んだのです。その手は冷たく、まるで氷のように冷たくて彼の血の気が引くのを感じました。タケルは驚き、手を振り払おうとしましたが、その手の力は異常なほど強く、彼を川へと引きずり込もうとします。
パニックに陥ったタケルは声を上げましたが、喉が凍りついたように声は出ません。そのとき、川の奥から巨大な影がゆっくりと浮かび上がり、水面を割って姿を現しました。それは「川の主」と呼ばれる妖怪でした。長い髪が水に揺れ、鋭い牙が光り、彼の目は深い恨みを宿していました。
「ここはお前の来るところではない…」妖怪の声は低く、深い川の底から響いてくるようでした。タケルの体は恐怖で凍り付き、次の瞬間、冷たい水の中へと引きずり込まれました。彼の視界は水中の闇に包まれ、どこからともなく耳元で囁くような声が聞こえてきました。それは「川の主」の怨念の声でした。
翌朝、村人たちはタケルが戻らないことに気付きましたが、誰も川に近づくことはありませんでした。タケルの行方は永遠に謎のままで、村人たちはその日以来、さらに川を恐れるようになりました。特に、若者たちは決して川に近づくことなく、夜になると家に閉じこもるようになりました。
それ以来、川の主は再びその静けさを取り戻し、村人たちの記憶に恐怖の存在として深く刻まれました。今でも、村の川辺では夜になると、どこからともなく現れる青白い手の噂がささやかれ、川の主の伝説は消えることなく語り継がれています。
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