神無月の影
幼い頃から、私は幽霊や妖怪の類を信じていなかった。実家は神社の境内にある古い社務所で、毎晩のように聞こえてくる祭囃子や太鼓の音も、私にとってはただの生活音でしかなかった。大人たちは「神様の音色」と呼んでいたが、幼い私にはただの騒音にしか聞こえなかったのだ。
私は一人っ子で、両親は共働きだった。そのため、幼い頃から一人で留守番をすることが多かった。日が暮れて辺りが暗くなっても、私は家の中で本を読んだり、テレビを見たりして過ごしていた。近所の子供たちは、日が暮れると「お化けが出るから」と言って家に帰ってしまうが、私はそんな話を一笑に付していた。むしろ、神社の境内という特殊な環境で育った私は、得体の知れない存在に対する耐性が人一倍強かったのかもしれない。
ある夏の夜、私はいつものように一人で留守番をしていた。両親は仕事で遅くなるという連絡が入っていた。夕食を済ませ、テレビを見ていると、急に停電になった。家の中は漆黒の闇に包まれ、私は一瞬にして恐怖に襲われた。しかし、すぐに冷静さを取り戻し、懐中電灯を探し始めた。
懐中電灯を見つけ、部屋を照らすと、障子に人影が見えた。それは、私の知っている誰でもない、異様に背の高い、黒い人影だった。心臓が激しく鼓動し、恐怖で足がすくんだ。人影はゆっくりと障子に近づいてくる。そして、障子に手をかけ、ゆっくりと開け始めた。
私は恐怖のあまり叫び声を上げ、部屋の隅にうずくまった。しかし、次の瞬間、障子は音もなく閉まり、人影は消えてしまった。私は、震えながら朝まで眠ることができなかった。
次の日、私は両親に昨夜の出来事を話したが、彼らは「疲れていただけじゃないか」と取り合ってくれなかった。しかし、私は確かに人影を見たのだ。それは、今まで信じていなかった幽霊や妖怪の類だったのかもしれない。
それ以来、私は夜一人でいることが怖くなった。暗闇の中に、あの不気味な人影が潜んでいるような気がして、眠れぬ夜が続いた。そして、神社の境内という神聖な場所で育ったにも関わらず、私は神様を信じることができなくなった。
あの夜の体験は、私にとって、幼少期の無邪気な信仰心を打ち砕く、トラウマ的な出来事となった。そして、私は大人になるにつれ、あの黒い人影の正体を突き止めようと、様々な文献を読み漁るようになった。しかし、未だに答えは見つかっていない。
ただ一つ確かなことは、あの夜、私は確かに「何か」を見てしまったということだ。そして、その「何か」は、今もなお、私の心の奥底に潜んでいる。
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